極!!モーツァルト塾

自称サックス吹きが音楽について色々と語ります。洋楽多めです。

『アマデウス』 秀才から見た天才の姿

こんにちは。

恥の多い生涯を送ってきました。

今回は、アマデウスという映画を観た感想ともに、"天才と秀才"というテーマについて考えていきたいと思います。

モーツァルトサリエリ

アマデウス ディレクターズカット [Blu-ray]

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舞台は1700年代後半のウィーン、当時イタリア人が支配する音楽界に一人の男が現れます。その名も、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト

モーツァルトはその天賦の才能を欲しいままにしながらも、その奇天烈なキャラクターと品行方正とは程遠い素性から、人々から馬鹿にされる存在でした。あまりにも非常識なため、職にもまともにありつけず、人々から物乞いをするに近いような状態でした。

しかし、ある一人の男は違いました。宮廷学長のアントニオ・サリエリだけは、モーツァルトの才能に気付いていたのです。サリエリは宮廷音楽家として長年のキャリアを持つベテランでした。故に、モーツァルトの才能を理解することができる人物でした。サリエリは一抹の不安を覚えます。「この男は私を超える才能の持ち主なのではないか?」と。

また、モーツァルトは数々の浮名を流すことでも有名でした。サリエリが密かに恋心を寄せる、とあるオペラ歌手もその例に漏れず、モーツァルトは手を出していたのです。
サリエリはその音楽的な才能だけでなく、密かに恋心を寄せる女性までモーツァルトに先を越されてしまうのでした。

そしてある日、事件がおきます。モーツァルトの妻コンスタンツェは、こっそりとサリエリの家を訪れていました。モーツァルトを音楽教師として推薦するために。そしてその手にはモーツァルトの直筆の楽譜が…初めて目にするモーツァルトの譜面。それを手に取ったサリエリは確信しました。

「この男は本物だ。天はこの男に神の声を与えたのだ」

と。
一方で、自身はその才能を理解することはできるが、モーツァルトと同じものを作ることは出来ない。

「何故天は敬虔なる私ではなく、この下品な男に神の声を与えたのか?」

サリエリは怒りに燃えます。そしてこの不貞、モーツァルトへの黒い嫉妬に駆られるようになっていきます…
この結末は是非、映画本編にてご覧いただきたいと思います。

さて、この映画はモーツァルトの生涯を追いかけるものでありながら、その実は天才への嫉妬に駆られる一人の秀才の物語なのです。
サリエリは禁欲的な努力により積み重ねてきた実績がありました。故に、天才の才能を理解できてしまう。理解できるが故に、その才能と自分とのギャップに嫉妬し絶望する。

天才に嫉妬できるのは、地道に努力を積み重ねてきた者だけの特権なのです。

僕はこの映画を観て、とても胸が苦しくなりました。サリエリの気持ちがよく分かってしまうから。僕もかつて、サリエリのように才能のある人物への嫉妬に駆られた経験があったからです。

何者かになりたかった学生時代

それは僕が学生の時でした。僕は持たざる者でした。勉強もできなければ、運動もできない。かといって芸事も大してできるわけでもなく、おまけにクラスの多くの人達から嫌われていました。
ある時、僕は決心しました。「このままでは自分は惨めな思いを抱えながら、何者にもなれない。だから、この現状を変えるのだ。そして自分を取り戻すのだ!」と。

それから僕は、死ぬほど頑張りました。持たざる者だった僕は、そもそも人並みよりもかなり劣っていました。

「お前は人一倍努力しないと上手くいかない」

と、しばしば人に言われていましたが、この時その事実を嫌というほど痛感しました。こんなにも自分は出来ない奴だったのかと。
僕はゼロではなく、マイナススタートだったのです。だから、人一倍頑張ってようやくスタートライン。当時は本当に周りに追いつくのに必死でした。それで、やっと人並み。こんなにも辛い体験は人生で初めてだったのです。

嫉妬と絶望

そうしていくうちに、段々と結果が出るようになってきました。僕を嫌っていた連中も、僕が努力している姿を見てか、僕を見直してくれるようになりました。
そしてある時、ようやく人並以上の結果が出せるようになりました。僕は喜びました。

「やった!やったんだ!これで自分は何者かになれたのだ!」
と。

しかし、ある人物が僕の前に現れます。クラスの中でも、優秀な部類に入る人物でしたがそれでいて人望もある、まさにヒーローのような人物でした。僕はそいつのことが気になり始めます。僕は持たざる者でしたから、"持っている"者がどんな結果を出してくるのか気になったのです。

僕は残酷な事実を知ってしまいました。なんとそいつは僕が死ぬ気で努力し、勝ち取った結果を涼しい顔して出すばかりか、さらに優れた結果を出しているではありませんか!
僕は怒りを覚えました。世の中は不公平だと。僕には何も与えられていないのに、一方で天に愛され、才能を与えられ、多くの人から好かれる者が存在する。こんなものは理不尽だ。こんなものは間違っている!と。

僕はさらに追い込まれました。こいつに勝ちたい、こいつよりのしあがりたい、目に物見せてやりたい、と。そんな感情を抱きながら、僕はさらに努力しました。
来る日も来る日も、人一倍の努力を続けました。しかし、結局勝つことはできませんでした。何一つ僕はそいつに勝てなかったのです。
僕は人生に絶望しました。「所詮、こんなものか」と。僕は一生何者にもなれない。このまま負け犬の人生を歩むのだと。そうした思いをずっと抱えながら、僕は残りの学生時代を過ごしていました。

僕は『アマデウス 』を観て、自然とサリエリと当時の自分を重ね合わせていました。

天才の見ているモノ

でもね、ある時気づいたのですよ。才能のある人に嫉妬して、世の中に怒りをぶつけるのは馬鹿げている。こんなことしても何にもならないじゃないか。同じ土俵で戦うから負けるのだ。自分が自分らしくいられるやり方でいいじゃないかと。

僕は間違っていたんですよ。僕はそいつのことばかり見ていたのですが、そいつは僕のことを見ていなかった。そいつはただ、自分がやりたいことを素直にやっていただけ。僕はそいつに勝つことしか考えていなかったのですよ。だから、本気で楽しんでいる人間には勝てない。ただ、それだけのことだったんです。しかし、そのことに気付くまで、相当時間が掛かってしまいました。

そういえば、最近こんなブログを見つけました。
凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか? - 『週報』北野唯我のブログ

まず、天才は、秀才に対して「興味がない」。一方で、凡人に対しては意外にも「理解してほしい」と思っている。

なぜなら、天才の役割とは、世界を前進させることであり、それは「凡人」の協力なしには成り立たないからだ。

この話はまさに目から鱗でした。僕が考えていることがそのまま書かれていたからです。そうです、天才は秀才に興味がないという残酷な事実です。天才は世の中を見ている。だから、自分に対してムキになりながら食ってかかる輩なんか相手にしない。そんなものに本当の価値はないと分かっているから。

早くこのことに気付いていれば、と思った一方で僕は幸せ者だなと思いました。この事実に気付かないまま、絶望しながら生きる人生を歩む必要が無くなったからです。それだけでも十分な収穫でした。

自分らしく生きる

今はもう、何者かになろうとすることに興味がありません。自分がいかに凄いかをアピールするのが馬鹿らしくなったからです。不思議なことにそうやってムキになることを辞めると、物事が上手くいき始めるようになるのですよね。

大学院時代、自分がやっていた研究が評価を受けたこともありました。アマチュアながら、人前で演奏を成功させる経験も何度かさせていただきました。そうしたものが積み重なってくると、自分が評価されるということに対して興味が無くなってくるのですよね。もう散々、色々なものをいただきましたので、そろそろそのお返しをする時期ではないかと考えている今日この頃です。

別に、何者かになろうとしてもがく人達を馬鹿にしているのではありません。僕自身もそうでしたから。ただ、僕はもうそこからは卒業したというだけのことです。僕はもうムキになってそんなことをしたくありません。だから、今は世の中のためになることとか、面白いと思ったものを素直にやってみるとか、そういったことをしながらこれからの日々を生きたいと考えております。

「向上心のない奴は駄目だ」と、僕のことを馬鹿にして煽ってくる奴がいます。恐らく、僕を貶めることで自分の評価を上げようとしているのでしょうが、相手にしてません。「そんなことしても君の評価は変わらないよ」と心の中で思うに留めています。

昔の僕なら反論していたでしょうが、今はもうしません。時間の無駄ですから。そんな輩を相手にするほど暇でもないし。そもそも、他者を貶めることで自分を持ち上げようとする奴なんて大したことありません。自分に酔っているだけです。「君の評価を決めるのは君じゃなくて他人だよ」、と教えてあげたいのですが、残念ながらその事実を受け入れていなさそうなので仕方ないですよね。だから無視。

それよりも、もっと自分がやりたいことをやる。今はそういうスタンスです。その方が結果も出せるし。先ほど書いた通り、煽る奴の土俵に乗ってしまうと自分が惨めな思いをすることは目に見えているので、相手にしない方が吉なのです。

僕は悲劇のサリエリにはなりたくない。だから、僕は僕なりのスタンスでこれからも頑張っていきたいと思いました。