極!!モーツァルト塾

自称サックス吹きが音楽について色々と語ります。洋楽多めです。

『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

Amazon Primeで面白そうな映画を見つけたのでご紹介したいと思います。

パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

天才ヴァイオリニストことニコロ=パガニーニの生涯を追った映画で、その才能故の人生に対する葛藤が描かれています。

天才ヴァイオリニスト、ニコロ=パガニーニ

まず始めに、パガニーニについておさらいしておきたいと思います。

ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアのヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストであり、作曲家である。特にヴァイオリンの超絶技巧奏者として名高く、「ヴァイオリンの鬼才」とも称される。

Wikipediaより引用
ニコロ・パガニーニ - Wikipedia

モーツァルトなどの作曲家と比べると、一般的にはマニアックな部類かと思いますが、ヴァイオリニストとして数々の曲を作曲しております(というより、自分がやるために作ったと言った方が正確かもしれませんが)。
特に有名なのが、この『Caprice No.24』です。

こちらはヴァイオリニストのHifetzによる演奏です。

また、他にも数々の音楽家達により変奏曲が書かれています。

Franz Liszt『Grandes études de Paganini No.6』

Sergei Rachmaninoff『Paganini Rhapsody』

これらの曲は今でも演奏されており、数々の音楽家や聴衆を魅了し続けています。

馬鹿と天才は紙一重

さて、映画を観た感想ですが、

「こいつアホやろw」

いきなりこんな感想が出てきました。女たらしで、折角稼いだお金も博打で全部溶かしてしまい、挙句の果てに自分の商売道具であるヴァイオリン賭けに出してしまう始末。この男、とんでもないアホです。
前の「アマデウス 」でも書きましたが、所謂天才と呼ばれる音楽家はロクデナシばかりです。


受け入れられない天才

そんな破天荒なパガニーニですが、ヴァイオリンの実力は本物です。全く新しい今までにない演奏スタイルを編み出し、まさに超絶技巧と呼べる域へと達していました。そんな天才パガニーニですが、そのあまりにも型破りな演奏スタイル、は聴衆からの理解を得られません。これも天才故の宿命でしょうか、聴衆というものは残酷で天才が本当に評価される瞬間というものは、得てして時間が掛かるものです。

いつの時代も天才の影にパトロンあり

そんな中ある1人の男、ウルバーニが彼の才能を見抜いていました。ウルバーニはパガニーニに近づき、そのヴァイオリンでヨーロッパ中を支配するように勧めます。そうしてウルバーニは、パガニーニの従者として生涯仕えることを誓います。

また、パガニーニの才能はもう1人の男にも見抜かれます。ロンドンにて指揮を執る、ジョン=ワトソンという音楽家。彼もまた、パガニーニという1人のヴァイオリニストの才能に惚れ込んでいたのです。ワトソン氏のその惚れっぷりは凄まじく、莫大な前金と私財を投げ打ってまでパガニーニをロンドンに呼び込もうとします。

まさに、家庭を顧みずといった一種の博打のようなものでしたが、彼を呼び込めた暁には自身が指揮する演奏会は約束されたもの。多少の痛みなどはとるに足らないのです。

こうして、パガニーニは数々のパトロンに援助されながら(振り回しながら)、何とか食いつないでいくのでした。

酔っ払いを味方につけたら勝ち

アマデウスでのモーツァルトもそうなのですが、変にお高く止まっている貴族よりも酒場で馬鹿騒ぎしてる酔っ払い達を相手に「なんかすげーやつがいる!」と思わせる方が共感を得られやすいんですよね。やっぱり、なんだかんだで世論を味方につけると強いのです。

パガニーニも劇中にて、ふらっと立ち寄った酒場にて乱痴気騒ぎの暴動を起こします。そんな中、暴漢に煽られヴァイオリンの腕前を披露することになるのですが、乱痴気騒ぎを眺めていた観客たちはその超絶技巧に釘付けになります。

「こいつは本物だ」

そう確信した観客たちは色めき立ち、パガニーニはたちまちロンドン中のスターへとのし上がるのでした。

そういえばかの天才モーツァルトの生きた時代は、音楽家といえば宮廷に仕えるのが一般的で、パガニーニのように大衆向けに活動するのはこの時代になってからなのですよね。「アマデウス 」を観た後だと、音楽に対する時代の変化というものが感じられて中々興味深いです。

もう1人の主人公、シャーロット

この映画にはもう1人の主人公が存在します。ジョン=ワトソンの子女、シャーロット=ワトソンです。ロンドン公演にあたりワトソン家に居候することになったパガニーニに対し、シャーロットは始めは非常に不満を抱いていました。

「ろくに練習もせずに女を口説いてばかりいるこの男は本物のヴァイオリニストなのだろうか?」

不貞、パガニーニはワトソン家でも除け者扱いされてしまいます。
そんなシャーロットですが、パガニーニの演奏や自身の歌手としての才能をズバリと見抜いたその音楽家としての力量から、パガニーニを本物の音楽家として認めていくようになります。それはやがて恋心へと変化していくのですが…

この結末は是非、映画をご覧いただきたいと思います。


アマデウス 』でもそうなのですが、天才は大体ロクな人生を送れません。凡人として生きられるということは、ある意味幸せなのです。
自分しか分からない、でも絶対これは世の中を変える力があるに違いない。そんな葛藤を常に抱きながら送る人生は苦痛であるに違いありません。そんな1人のヴァイオリニストの苦悩が感じ取られる映画でした。

『アマデウス』 秀才から見た天才の姿

こんにちは。

恥の多い生涯を送ってきました。

今回は、アマデウスという映画を観た感想ともに、"天才と秀才"というテーマについて考えていきたいと思います。

モーツァルトサリエリ

アマデウス ディレクターズカット [Blu-ray]

アマデウス ディレクターズカット [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray

舞台は1700年代後半のウィーン、当時イタリア人が支配する音楽界に一人の男が現れます。その名も、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト

モーツァルトはその天賦の才能を欲しいままにしながらも、その奇天烈なキャラクターと品行方正とは程遠い素性から、人々から馬鹿にされる存在でした。あまりにも非常識なため、職にもまともにありつけず、人々から物乞いをするに近いような状態でした。

しかし、ある一人の男は違いました。宮廷学長のアントニオ・サリエリだけは、モーツァルトの才能に気付いていたのです。サリエリは宮廷音楽家として長年のキャリアを持つベテランでした。故に、モーツァルトの才能を理解することができる人物でした。サリエリは一抹の不安を覚えます。「この男は私を超える才能の持ち主なのではないか?」と。

また、モーツァルトは数々の浮名を流すことでも有名でした。サリエリが密かに恋心を寄せる、とあるオペラ歌手もその例に漏れず、モーツァルトは手を出していたのです。
サリエリはその音楽的な才能だけでなく、密かに恋心を寄せる女性までモーツァルトに先を越されてしまうのでした。

そしてある日、事件がおきます。モーツァルトの妻コンスタンツェは、こっそりとサリエリの家を訪れていました。モーツァルトを音楽教師として推薦するために。そしてその手にはモーツァルトの直筆の楽譜が…初めて目にするモーツァルトの譜面。それを手に取ったサリエリは確信しました。

「この男は本物だ。天はこの男に神の声を与えたのだ」

と。
一方で、自身はその才能を理解することはできるが、モーツァルトと同じものを作ることは出来ない。

「何故天は敬虔なる私ではなく、この下品な男に神の声を与えたのか?」

サリエリは怒りに燃えます。そしてこの不貞、モーツァルトへの黒い嫉妬に駆られるようになっていきます…
この結末は是非、映画本編にてご覧いただきたいと思います。

さて、この映画はモーツァルトの生涯を追いかけるものでありながら、その実は天才への嫉妬に駆られる一人の秀才の物語なのです。
サリエリは禁欲的な努力により積み重ねてきた実績がありました。故に、天才の才能を理解できてしまう。理解できるが故に、その才能と自分とのギャップに嫉妬し絶望する。

天才に嫉妬できるのは、地道に努力を積み重ねてきた者だけの特権なのです。

僕はこの映画を観て、とても胸が苦しくなりました。サリエリの気持ちがよく分かってしまうから。僕もかつて、サリエリのように才能のある人物への嫉妬に駆られた経験があったからです。

何者かになりたかった学生時代

それは僕が学生の時でした。僕は持たざる者でした。勉強もできなければ、運動もできない。かといって芸事も大してできるわけでもなく、おまけにクラスの多くの人達から嫌われていました。
ある時、僕は決心しました。「このままでは自分は惨めな思いを抱えながら、何者にもなれない。だから、この現状を変えるのだ。そして自分を取り戻すのだ!」と。

それから僕は、死ぬほど頑張りました。持たざる者だった僕は、そもそも人並みよりもかなり劣っていました。

「お前は人一倍努力しないと上手くいかない」

と、しばしば人に言われていましたが、この時その事実を嫌というほど痛感しました。こんなにも自分は出来ない奴だったのかと。
僕はゼロではなく、マイナススタートだったのです。だから、人一倍頑張ってようやくスタートライン。当時は本当に周りに追いつくのに必死でした。それで、やっと人並み。こんなにも辛い体験は人生で初めてだったのです。

嫉妬と絶望

そうしていくうちに、段々と結果が出るようになってきました。僕を嫌っていた連中も、僕が努力している姿を見てか、僕を見直してくれるようになりました。
そしてある時、ようやく人並以上の結果が出せるようになりました。僕は喜びました。

「やった!やったんだ!これで自分は何者かになれたのだ!」
と。

しかし、ある人物が僕の前に現れます。クラスの中でも、優秀な部類に入る人物でしたがそれでいて人望もある、まさにヒーローのような人物でした。僕はそいつのことが気になり始めます。僕は持たざる者でしたから、"持っている"者がどんな結果を出してくるのか気になったのです。

僕は残酷な事実を知ってしまいました。なんとそいつは僕が死ぬ気で努力し、勝ち取った結果を涼しい顔して出すばかりか、さらに優れた結果を出しているではありませんか!
僕は怒りを覚えました。世の中は不公平だと。僕には何も与えられていないのに、一方で天に愛され、才能を与えられ、多くの人から好かれる者が存在する。こんなものは理不尽だ。こんなものは間違っている!と。

僕はさらに追い込まれました。こいつに勝ちたい、こいつよりのしあがりたい、目に物見せてやりたい、と。そんな感情を抱きながら、僕はさらに努力しました。
来る日も来る日も、人一倍の努力を続けました。しかし、結局勝つことはできませんでした。何一つ僕はそいつに勝てなかったのです。
僕は人生に絶望しました。「所詮、こんなものか」と。僕は一生何者にもなれない。このまま負け犬の人生を歩むのだと。そうした思いをずっと抱えながら、僕は残りの学生時代を過ごしていました。

僕は『アマデウス 』を観て、自然とサリエリと当時の自分を重ね合わせていました。

天才の見ているモノ

でもね、ある時気づいたのですよ。才能のある人に嫉妬して、世の中に怒りをぶつけるのは馬鹿げている。こんなことしても何にもならないじゃないか。同じ土俵で戦うから負けるのだ。自分が自分らしくいられるやり方でいいじゃないかと。

僕は間違っていたんですよ。僕はそいつのことばかり見ていたのですが、そいつは僕のことを見ていなかった。そいつはただ、自分がやりたいことを素直にやっていただけ。僕はそいつに勝つことしか考えていなかったのですよ。だから、本気で楽しんでいる人間には勝てない。ただ、それだけのことだったんです。しかし、そのことに気付くまで、相当時間が掛かってしまいました。

そういえば、最近こんなブログを見つけました。
凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか? - 『週報』北野唯我のブログ

まず、天才は、秀才に対して「興味がない」。一方で、凡人に対しては意外にも「理解してほしい」と思っている。

なぜなら、天才の役割とは、世界を前進させることであり、それは「凡人」の協力なしには成り立たないからだ。

この話はまさに目から鱗でした。僕が考えていることがそのまま書かれていたからです。そうです、天才は秀才に興味がないという残酷な事実です。天才は世の中を見ている。だから、自分に対してムキになりながら食ってかかる輩なんか相手にしない。そんなものに本当の価値はないと分かっているから。

早くこのことに気付いていれば、と思った一方で僕は幸せ者だなと思いました。この事実に気付かないまま、絶望しながら生きる人生を歩む必要が無くなったからです。それだけでも十分な収穫でした。

自分らしく生きる

今はもう、何者かになろうとすることに興味がありません。自分がいかに凄いかをアピールするのが馬鹿らしくなったからです。不思議なことにそうやってムキになることを辞めると、物事が上手くいき始めるようになるのですよね。

大学院時代、自分がやっていた研究が評価を受けたこともありました。アマチュアながら、人前で演奏を成功させる経験も何度かさせていただきました。そうしたものが積み重なってくると、自分が評価されるということに対して興味が無くなってくるのですよね。もう散々、色々なものをいただきましたので、そろそろそのお返しをする時期ではないかと考えている今日この頃です。

別に、何者かになろうとしてもがく人達を馬鹿にしているのではありません。僕自身もそうでしたから。ただ、僕はもうそこからは卒業したというだけのことです。僕はもうムキになってそんなことをしたくありません。だから、今は世の中のためになることとか、面白いと思ったものを素直にやってみるとか、そういったことをしながらこれからの日々を生きたいと考えております。

「向上心のない奴は駄目だ」と、僕のことを馬鹿にして煽ってくる奴がいます。恐らく、僕を貶めることで自分の評価を上げようとしているのでしょうが、相手にしてません。「そんなことしても君の評価は変わらないよ」と心の中で思うに留めています。

昔の僕なら反論していたでしょうが、今はもうしません。時間の無駄ですから。そんな輩を相手にするほど暇でもないし。そもそも、他者を貶めることで自分を持ち上げようとする奴なんて大したことありません。自分に酔っているだけです。「君の評価を決めるのは君じゃなくて他人だよ」、と教えてあげたいのですが、残念ながらその事実を受け入れていなさそうなので仕方ないですよね。だから無視。

それよりも、もっと自分がやりたいことをやる。今はそういうスタンスです。その方が結果も出せるし。先ほど書いた通り、煽る奴の土俵に乗ってしまうと自分が惨めな思いをすることは目に見えているので、相手にしない方が吉なのです。

僕は悲劇のサリエリにはなりたくない。だから、僕は僕なりのスタンスでこれからも頑張っていきたいと思いました。